自らすすんで手を汚すのになんの躊躇があったろう。
真黒になったこの手の中にいくら希望があったろう。
自城の石板のある部屋で、英雄は控えめにしかしはっきりと言った。
「ごめん」
「……」
「ごめんね」
ルックは俯いたままで、目を合わせるどころか見せようともしない。
「別に」
吐き捨てるように呟いて、顎と首の角度をさらに急にする。
「……ごめん」
再び謝ってから、彼も俯いてため息をこぼした。
「はぁ……ってぎゃいぃああぁ!」
「何……」
「るるるっくアレあれあれ」
「ただの虫じゃないか」
虫。
虫は虫でも。
「リブキゴォァー!」
その単語に、まわりの部屋からざわつきが聞こえてくる。
「はぁ? リブ編み?」
「違う! リボ払いでもなくてゴキブリ! うわきゃあ言っちゃった!」
箸が転がってもおかしがる年頃の娘さんのごとく、
ドドメ色の声で騒ぎながら鬱陶しがられるのも何のそのでハイテンションである。
「ふぅん、本で読んだことあるよ。女性が嫌がるやつだろ」
英雄は、ルックの背中に張りついて、がくがく震えて木偶の坊。
「黒い……黒い歩いてる歩いてる」
「実況中継しなくていいよ」
「中継はしてないー」
「いちいちうるさい」
「ルックはなんでそんなに落ち着いてんの、あいつら飛ぶよ? 飛ん、うがぁ来るなぁ!」
「ゴキブリの 行動予報を する英雄 情けなきこと 限りなし」
「字余りだよ! あーん! ルックが石版の後ろにクッキーなんて隠すからあ!
ああもう、ほんとにあんなとこにクッキーさえなきゃ……」
「ああもううるさいな……えい」
べちぐちゃり。
蚊でもペちんとやっつけるように、俊敏に動いた腕。
「はぁ……ってぎゃいぃああぁ!」
「何……」
石板の後ろからちり紙を持ってきてなんでもないふうに手を拭っている。
あまりの平然さに英雄も流されたらしい。
「こんどマリーにクッキー焼いてもらってきてあげるよ。
そしたら、もう今度はルックのクッキー食べたりしないから、ごめん」
「ふん、もらってあげてもいいよ、それと」
俯いて横を向いて、複雑に首を傾けてしばらくの沈黙。
「……別に、いっしょに食べてあげてもいい」
「え……」
「おそらく君は女性にもてないから、暇でしょ」
「あのルック、人の前髪見ながら言わないで欲しいんだけど」
「黒いし、ぴよって生えてるし、歩くし……あれ飛ばないのか」
「あのルック、俯いたまま小さく言わないで欲しいんだけど」
「考え事してるの、あんたうるさい」
べちぐちゃり。
「黒、黒、でろでろ、べちゃ、……わーーーー!」
両の頬を奇怪な色で染めて英雄は走り出す。
「うわぁんグレミオー! ルャイアンがいじめるー!」
「なにやってんだか……」
阿呆のような後姿を見送ってから、手でも洗いに行こうと部屋を出る。
心なしか顔があつい気がするから顔も洗わないと、なんて思いながら。